主の晩餐 現代アメリカにおける聖餐への問い
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主の晩餐に対する改革派教会の歴史的な理解を諸教派の見解と比較しながら明らかにし主の晩餐への新たな渇望を呼び覚ます
われわれは、なぜ、主の晩餐を食すのか、いかにして主の晩餐においてキリストに与るのか、誰がこの「交わり」(コミュニオン)に加えられるのかなど、主の晩餐をめぐる諸問題を、聖書から説き明かす。
目次
はじめに
一章 主の晩餐の聖書的根拠
一 主の晩餐と過越の食事
二 新約聖書の用語
? パン裂き
? 主の食卓
? 主の晩餐
? 与ること・交わり(コミュニオン)
? ユーカリスト(感謝)
三 聖餐式で、何が起こっているのか
? 記念
? 福音の宣教
? 主の体と血との「交わり」またはそれらに「与ること」
四 「命のパン」としての主イエス
― ヨハネによる福音書 六章四七・五八節の考察―
(一)その文脈
(二)信仰を通して、主イエスは与えられる(ヨハネ六・四一―四七)
(三)主の晩餐において、主イエスは食され、かつ飲まれる(ヨハネ六・四八―五八)
五 主の晩餐に関連する他の聖書箇所
二章 教会史における主の晩餐
一 物体的現臨――実体変化説
二 物体的現臨――共在説
三 不在という現実――記念説
四 霊的現臨――霊的な交わり
三章 改革派神学における主の晩餐
一 ジャン・カルヴァン
二 ウェストミンスター信仰規準
四章 主の晩餐の実践
一 主の晩餐の物素
? 一つのパン
? 一つの杯
? ぶどう酒
? 酵母のないパン?
二 幼児洗礼を受けた子どもたちへの配餐?
三 主の晩餐の頻度
結び 主の晩餐とその未来
訳者あとがき
まえがき
主の晩餐は、主イエス御自身によって始められたものであり、主イエスが再臨なさる時まで、これからもずっと執り行われることでしょう。わたしたちの主が、御自身の教会とその教会員の益のために、また御自身の栄光のために、主の晩餐を制定してくださいました。しかし、悲しいことに二つの誤りによって、教会の多くの部分が、新約聖書の福音書や手紙に表されている主イエス御自身の御旨から引き裂かれてしまいました。誤りの一つは、サクラメントは執行された事柄そのものによって霊的な恵みを伝える、とローマ・カトリック教会が教えてきたことであり、この教えは、パンとぶどう酒が実際のキリストの体と血へと変わり、キリストの体と血になる、と主張してきました。そしてもう一つの極端な誤りは、聖書に拠って立つ多くの教会が、ローマ・カトリック教会に対してあまりに反発した結果、主の晩餐を恵の手段とは考えず、ただの象徴に過ぎず、わたしたち自身の記念という人的行為から成るもの、と考えるようになったことです。
主の晩餐において、厳密に何が起きているのかをめぐって、改革者たちの間には決定的な違いがあります ―本書では、ルター派と改革派との不一致が論じられています―。しかし、 改革者たちがこれら両方の過ちを退けたことは明らかです。改革者たちは、恵みは事実上自動的に伝えられる、とのローマ・カトリック教会の教えを退ける一方で、わたしたちがキリストに与り、キリストを食べるという事実を強調して、主の晩餐には象徴以上のものがある、と主張しました。
聖餐の交わりにおいて、豊かな霊的な祝福がわたしたちを迎えてくださると確信するのは、本書で記されているとおり、スコットランドの偉大な神学者であるロバート・ブルースが述べたように、わたしたちは ―信仰において― 「よりよくキリストに与る」ことができるからです。わたしが望むこと、またわたしの祈りは、この訳書が日本の教会にとって益となり、わたしたちが皆、聖霊によって、信仰をとおして、キリストを食べ、キリストとの交わりと一体性において成長し、そうして、聖霊において、聖にして不可視なる三位一体の一致において、御父を知るようになることです。このことは、教会にとって大いなる益となるばかりでなく、わたしたちの様々な諸文化に対しても、福音の影響力をよりいっそう強めていくことになるでしょう。
2007年7月 ロバート・リーサム
訳者あとがき
本書はRobert W.A. Letham, The Lordユs Supper: Eternal Word in Broken Bread,(Presbyterian & Reformed Publishing Company,2001)の全訳です。
著者ロバート・リーサムは、ロンドンで生まれ、エグゼター大学で政治学を学び、その後、ウェストミンスター神学大学で、宗教学修士(七五年)と神学修士(七六年)を修め、アバディーン大学で「改革派神学における救いの信仰と保証…ツヴィングリからドルト会議まで(Saving Faith and Assurance in Reformed Theology: Zwingli to the Synod of Dordt)」という主題の論文で博士号(Ph.D)を取得しました(一九八〇年)。
リーサムは、二〇〇六年まで、北米アメリカの改革派・長老教会の中でも、メイチェン以来の伝統を受け継ぎ、ウェストミンスター信仰規準に堅く立つ「正統長老教会(Orthodox Presbyterian Church)」に所属するインマヌエル正統長老教会の主任牧師を十七年務め、他方で、ウェストミンスター神学大学の准教授職に従事し、その他、ワシントンDCにある改革派神学校でも組織神学を教えてきました。そして最近、前出の教会の牧師を辞し、二〇〇七年一月から、イギリスのウェールズ福音主義神学校(Wales Evangelical School of Theology)でも組織神学を教え始めるなど、大西洋をまたぐ形で、神学教師としての務めに専念しています。
本書の他に、リーサムによる書物は次のものがあります。
・The Work of Christ(IVP, 1993)
・The Holy Trinity(Presbyterian & Reformed, 2004)
・Through Western Eyes: Eastern Orthodoxy, A Reformed Perspective(Mentor, 2007)
更に、近日発売が既に告知されているタイトルとして、次の書物があります。
・Assurance in Theological Context: Reformed Dogmatics 1523-1619(Rutherford Studies in Historical Theology, 近日刊行)
・The Theology of the Westminster Assembly(Presbyterian & Reformed / Craig Center for the Study of the Westminster Standards, 近日刊行)
・Union with Christ(Presbyterian & Reformed, 近日刊行)
このように、これまで取り組んできた課題を精力的に執筆するなど、リーサムは今後、改革派の立場からは、よりいっそうの活躍が期待される神学者の一人となることでしょう。
本書は、第一章で主の晩餐に関わる聖書箇所が釈義的に検証され、続く第二章では、史的観点から、カトリックや正教会、ルター派や改革派、それぞれの聖餐理解の変遷や特徴、またその問題点が鮮明に述べられ、第三章では、カルヴァンの理解とウェストミンスター信仰規準に基づいて、宗教改革の時代から継承していた聖餐に対する改革派の立場が考察され、第四章では、現代における実践上の諸問題や課題について述べる、という仕方で、聖餐に対する複合的な観点から、重要な点が非常にコンパクトに整えられ、改革派・長老教会の聖餐論を見事に提供していると言えます。
ただし本書は、アメリカという文脈を背景に記されたものであるため、例えば「十八世紀の禁酒運動」など、必ずしも日本の文脈にそぐわない記述があります。しかし、本書全体を通して示されている内容は、とくにアメリカを経由して伝えられた日本のプロテスタント教会にとっても、十分一読に値するものです。読者諸氏にとって、本書に記されていることが、たとえ全面的に賛成ではないにせよ、おもに改革派・長老教会が聖餐について、歴史的に、どのような神学的な立場を取ってきたのかを整理しなおすことができます。そして現在におけるわたしたちの教会の聖餐(主の晩餐)理解やその実践について改めて吟味することができます。そして、本書の随所で示される問題提起と主張、そして課題は、長老教会に関わる者だけでなく、日本におけるプロテスタント諸教会にとっても、聖餐理解を神学的に検証する上で、とてもよい材料を提供している、と確信します。
本書は、いたずらに聖餐理解の妥協点を見出そうとするよりも、むしろ宗教改革期の聖餐をめぐる戦いをあえて再現することにより、いかなる論争が繰り広げられてきたのかをつまびらかに論じることで、今日において曖昧とされ、あるいは歪められつつある聖餐の要点に切り込んでいきます。特に、聖餐理解をめぐって殉教したイングランドの改革者たちについて述べる際、「殉教者たちは、主の晩餐が福音の縮図であることを的確に認識していました。主の晩餐に関して、人がどのような立場に立つのかは、その人がキリスト教信仰の全体をどのように理解しているのかを示す正確な指標です」(四七頁)との著者の言葉は、まさしくそのとおりです。
本書の翻訳へと駆り立てられた一因は、訳者が所属する日本基督教団における「未受洗者陪餐」という看過できない重大な問題です。現在、アメリカとイギリスの牧師養成の神学校において組織神学を講じる一神学者によって書かれた本書は、この問題に対しても、神学的、教会史的、そして聖書的な筋道を提供すると共に、長老教会の立場から、あるいは長老教会の立場に対して、聖餐の問題を考察する資料の一つとなることを期待しています。「はじめに」で、著者リーサムが打ち鳴らす警鐘は、日本の教会の現状にも、確かに鳴り響いています。ですから日本でも、牧師、神学生はもとより、長老たちの研修や信従の学習会のテキストとしても、本書が読まれ、有効に活用していただければ、幸いです。
さて本書は、出版された二〇〇一年当時、リーサムが牧師として仕えてきたインマヌエル正統長老教会の長老会とその会衆に対し献呈されました。訳者もまた本書を、二〇〇一年四月から主任担任教師として仕え、未熟な牧師を絶えず祈りと忍耐をもって支えてくださった日本基督教団富田林教会の長老会と会衆に、本年七月をもってその職を辞す節目に、感謝して献呈したいと思います。殊に、石原冨美子、植木孝治、岡本恭司、奥田繁子、藤田鹿一、山岡陽子、各長老には、共にキリストの主権を確立するために教会形成に取り組んだ日々を思い、感謝を申しあげます。願わくは、富田林教会がこれからもA・D・ヘール宣教師の宣教開始から受け継いできた長老教会としてのよき伝統を受け継ぎながら、また改革教会としての神学的理解を豊かに活かしながら、いよいよ主の御心に適う「キリストの体」として成長し、前進することを、心から祈り願います。
翻訳にあたり、訳者の拙い原稿に目を通し、不備を指摘すると共に、数々の貴重な助言をくださった関川泰寛先生(十貫坂教会牧師・東京神学大学教授)と秋山英明先生(大阪南吹田教会)に対し、心から感謝を申し上げます。それでも尚、翻訳上の責任は訳者にあり、数々の至らない点は、読者のお許しを請いつつ、ご叱正、ご教示をお願いいたします。
最後に、本書の意義を理解し、出版の路を開いてくださった一麦出版社の西村勝佳氏に、心から感謝を申しあげます。
二〇〇七年六月 富田林教会にて 原田浩司
書評
主の晩餐への新たな渇望を呼び覚ます
著者ロバート・リーサムは、現在米国のウェストミンスター神学校、改革派神学校(ワシントンDC)、そして英国ウェールズ福音主義神学校と、大西洋をまたいで組織神学を講じ、近年、精力的に執筆活動を行っている神学者である。著者がこの書を執筆した理由を「はじめに」から引用しよう。「本書は、これまで述べてきたような主の晩餐に対するいいかげんさが、いかに悲劇的なものであり、その改善がいかに緊急の課題であるのかを論証することにあります」。この一文から、著者が、主に米国における今日の諸教会において、宗教改革の時代に比して、あまりにも主の晩餐が貶められている現状を憂い、本書を執筆したことが伺える。彼は、こうした聖餐を軽んじる傾向の一因として、十八世紀の信仰覚醒運動や福音伝道主義の出現等により、教会とサクラメント以上に、個人の回心体験を偏重する信仰の個人主義化への傾斜があるのでは、と指摘する。
訳者原田浩司氏のあとがきにも、「本書の翻訳へと駆り立てられた一因は、訳者が所属する日本基督教団における『未受洗者陪餐』という看過できない重大な問題からです」と記されている。恥を晒すようだが、日本基督教団内で「未受洗者陪餐」を実行する教会が出てきている。数十年前から既に兆候はあったが、今日その乱れは益々顕著に現れてきている。著者も訳者も、この二千年の教会の伝統、そして宗教改革の遺産を覆すこの現状を憂慮し、切なる願いを持ってこの書を著したのである。
さて、本書は四部から成り、第一章では主の晩餐の聖書的根拠が検証されている。特にここではヨハネ六章の釈義に多く割かれている。それは著者が、主の晩餐とは、何より、パンと杯を通して、キリストの体と血とに与り、キリストと一体となることに他ならないことを聖書から証言するためである。そしてそのことが歴史的教会の中で、いかに現実化されてきたのかが、第二章の「教会史における主の晩餐」で検証されていく。この章は「一物体的現臨――実体変化説、二物体的現臨――共在説、三不在という現実――記念説、四霊的現臨――霊的な交わり」とあって、項目だけ見ても想像できるように、しるし(物素)と実体(キリストの現臨)の関係の急所が押さえられている。すなわち、しるしと実体を同一視することで、信仰の必要性が失われ、聖餐が迷信化・偶像礼拝化してしまうこと、また聖餐が単なる記念のしるしであれば、キリストの体を喪失してしまうことが指摘されている。第三章「改革派神学における主の晩餐」では、先ず改革者カルヴァンの聖餐理解が改めて説かれ、そこからさらに著者の拠って立つ信仰規準であるウェストミンスター信仰告白の第二十九章に示された聖餐理解が検証され、実体変化説や共在説を退ける根拠が明示される。第四章「主の晩餐の実践」では、執行者がなぜ適切に按手を受けたみ言葉の役者でなければならないのか、物素や、晩餐の頻度、幼児洗礼を受けた子どもへの配餐は相応しいか等について、著者の見解や提言がなされている。特に幼児洗礼を受けた子どもへの配餐が近年増えてきている。実はその根底に、実体が変わるのだから信仰が特に必要とならない実体変化説、あるいは、聖餐を単なる象徴として、誰がそれに与ろうとも問題とはならないような記念説が潜んでいると指摘し、聖餐理解への警鐘を促している。
本書は、コンパクトながら、改革教会の聖餐論を明確に示す好書である。いや一教派教会の神学に留まらず、二千年の伝統を生き抜いてきた教会の、特に宗教改革以降の福音主義教会の土台となってきた聖餐の本質を再確認させる良書である。この書を学ぶことによって、未受洗者陪餐の問題の急所は、まさに「教会は主キリストのからだにして、恵みにより召されたる者の集い」(日本基督教団信仰告白)であることを信じる信仰の喪失現象であることが明瞭となってくる。
あらためて、聖霊の働きを信じ、み言葉に導かれ、天を仰ぎつつ、「新たな渇望」を持って主の晩餐を味わいたい。著者、および訳者の労に感謝する。
田邊由起夫(たなべゆきお)/日本基督教団茨木教会牧師
「本のひろば」2007年12月号
はじめに
ここ近年における主の晩餐のいいかげんな扱われ方ほど、現代と宗教改革の時代との間の差異を顕著に示すものはありません。宗教改革の時代には、主の晩餐は、とりわけ最も広く議論された主題でした。プロテスタント教会もローマ・カトリック教会も、信仰義認や聖書の権威といった神学的な主題よりも、主の晩餐を主題とした文章を次々と発表しました。言わば、主の晩餐は、人の信仰の立場をはっきりと浮かび出すリトマス試験紙でした。クランマーやラティマー、リドリ、フーパーといった殉教者たちは、ローマ・カトリック教会の実体変化説を否定したことで、火刑に処せられました。こうした事態に対し、プロテスタント陣営の論客たちは、他の神学上の諸問題よりも、主の晩餐に焦点を絞っていきました。数々の議論や定義が幾重にも積み重ねられ、サクラメントにおいてキリストが現臨される様態を明瞭に説明する試みがなされました。
しかし今日、主の晩餐は重要なものと位置づけられることがほとんどありません。任意に選択できる付加物であるかのようにすらみなされています。しばしば、人々の心地よい馴れ合いの儀式として、不用意に行われています。ある人々は、馴れ合いによって主の晩餐が貶められているとして、それを頻繁に行う諸教会に対し異議を申し立てます。主の晩餐を軽んじる傾向は、少なくともある部分では、十八世紀に、信仰覚醒運動や福音伝道主義が出現したことが影響しています。これらは、その当時、衰退しつつあった教会に対する反動として現れました。そこでは、ある人がキリスト者となる際には、その人自身の決定的な回心体験が重要であるとの主張がなされました。聖霊がその人自身の魂に直接に働いてくださることが舞台の中央に躍り出、教会とサクラメントの重要性は舞台のそでに退けられていきました。彼らは、まさしく直に聖霊による刷新の力を経験したかどうかで人を区別してきた、としばしばみなされています。こうした事態は、西欧の文化社会における個人主義化という地滑り的な転換が生じるにつれて、共同体としての諸活動や組織が、活力ある個人の私的経験を抑制する、と考えられるようになっていきました。
同じ頃、長老教会や改革派の諸教会も、このような考え方に侵食されていきました。一八四〇年代に、マーサースバーグのジョン・ネビンが主の晩餐に関する改革派の伝統的な教理を再解釈したとき、伝統的な神学的な立場の名うての擁護者たち、例えばチャールズ・ホッジたちから、厳しく反駁されました。歴史的な評価では、ネビンの方が正しく、ホッジの方が自身の神学的な伝統を誤解していた、とされています。ホッジは決して、ネビンが主の晩餐に関する改革派教会の教理について記した、何百頁にも及ぶ名著に対して反撃したのではなく、以後百年に及ぶ規準となった一つの論文をもって対応したにすぎませんでした1。
今日、長老教会、また改革派の伝統を継承する諸教会でさえ、イエス・キリストによって教会に伝えられている、この最も重要な事柄に対していいかげんである、と言わざるを得ません。たとえ教師検定試験をかなり慎重に実施する長老教会にあっても、ウェストミンスター信仰告白第二十九章の教えが特に取り上げられ、受験者に課せられることはほとんどありません。出版目録を見ても、主の晩餐について書かれた書物は少なく、しかも目録に記載されている書物の多くは既に一〇〇年以上も前に書かれたものです。本書は、これまで述べてきたような主の晩餐に対するいいかげんさが、いかに悲劇的なものであり、その改善がいかに緊急の課題であるのかを論証することにあります。
(著) ロバート・リーサム (訳) 原田浩司
出版:一麦出版社
主の晩餐 現代アメリカにおける聖餐への問い